1983年にノーベル賞を受賞したバーバラ・マクリントックは、ニューヨーク市のコールド・スプリング・ハーバー研究所で長年トウモロコシを観察し、「動く遺伝子」という概念を世界ではじめて提唱した女性科学者です。
彼女の主張は時代をはるかに先駆けていて、同時代の研究者たちはその重要性に長い間気づくことができませんでした。
この記事ではバーバラ・マクリントックと彼女の発見について紹介します。
マクリントックの学生時代
マクリントックは1919年に米国・コーネル大学農学部に入学しました。
興味がない授業には出席しなかったので成績は悪かったものの、一部の授業には猛烈に集中する学生だったようです。
例えば興味を引かれた地質学では、テストの際に答案用紙に集中しすぎて、自分の名前を思い出すことができず、ようやく20分もかかってバーバラ・マクリントックと書き入れたという逸話が残っています。
大学院では植物学研究を行いました。特にトウモロコシは、食料や家畜の飼料になるだけでなく、酒の原料や燃料にもなるので、その研究は当時から重視されていました。
1本のトウモロコシは数百の実がつきますが、それぞれは異なる胚が受粉した結果としてできています。
そのため1つ1つは遺伝学的な性質が少しずつ違い、その違いは色の違いとしても現れます。
マクリントックが大学院生であった1920年代は、メンデルの法則の再発見 (1900年) から20年ほどたち、遺伝学が急速に発展している時期でしたが、遺伝子の実態については不明でした。
核酸だという説もあったものの、むしろタンパク質だという考え方の方が優勢でした。
大学院生のマクリントックは、トウモロコシの細胞を自ら考案した方法で染色し、光学顕微鏡で観察することで、その染色体が10種類20本であることを世界ではじめて発見しました。これがマクリントックの最初の研究業績です。
1931年には、両親から引き継いだ遺伝子が組み換わる現象である遺伝子の交差はが、染色体の交差によって起こることを照明しました。
これは遺伝子が染色体上にあることを示す証拠となりました。
研究員として採用されない不遇の時代
日本では大正から昭和初期にあたる1920年代は、アメリカにおいても女性科学者の道は決して平坦ではありませんでした。
理系出身の女性が研究職につくのは困難で、よくて研究室の補助員程度であり、教授や准教授になる女性は皆無でした。
そもそも母校のコーネル大学は教員に女性を採用していなかったので、マクリントックは卒業後にドイツに留学しますが、その後は流浪の生活をおくり、正式な就職先 (ミズーリ大学の助手) が見つかったのは帰国から2年もたってからでした。
不安定な地位ではあったもの、細胞分裂や染色体の研究を行い、さまざまな発見をしました。
1942年、ミズーリ大学をやめてコールドスプリングハーバー研究所に移り、任期わずか1年の不安定な研究員として働き初めます。
ここでは再びトウモロコシの染色体の研究に取り掛かりました。
動く遺伝子の発見
トウモロコシの苗は1粒の実から育つので、苗のすべての細胞は同じ遺伝子を持つはずです。しかし、傷ついた染色体をもつ実から育った苗は葉や茎の色が変わり、斑点や縞模様ができました。
マクリントックは、これは苗が成長している間も染色体が変化し、それが色の変化として現れるからだと考えました。
6年かけて斑点の入ったトウモロコシの実と、その染色体を調べた結果、染色体が切断され、それによって色の遺伝子が失われるために斑紋ができるとしか考えられないという結論に至りました。
そこで、染色体上の欠損した遺伝因子 (遺伝子) をDsと呼びました (Dissociator, 解離因子の意)。
しかし染色体はDsが存在すれば常に切断されるわけではないようです。同じ染色上に別のある因子が存在するときだけ切断されていたのです。
そこでマクリントックはこの因子をAcと呼びました (Activatorの意味)。
Acが存在するとDsは別の場所に移動したり、いったん動いたDsがもとに戻ることを見つけたのです。
こうした観察から、マクリントックは染色体の一部が切れて動くことがあるという事実に気がついたのです。
1951年、この研究成果をコールド・スプリングハーバーでのシンポジウムで発表しました。
マクリントックは大きな反響を引き起こすのに違いないと思っていましたが、聴衆の間には「石のような沈黙」があったと伝わっています。
当時の研究者らに遺伝子が移動するというのは時代の先を行き過ぎていて、理解できなかったのです。
そもそも1953年のワトソン・クリックによるDNAの二重らせんの発見から2年も前のことであり、当時の研究者は遺伝子の本体については何も分かっていなかったので、無理のないことではあります。
動く遺伝子のその後
この後、マクリントックは失意に陥り、数年間ほとんど論文を発表しませんでした。
時代が変わったのは1960年代の終わりになってからです。
細菌の研究から、特定の遺伝子が染色体上の別の位置に「ジャンプ」することがわかったのです。
この「ジャンプ」する、トランスポゾンと呼ばれた遺伝子の研究が有名になったことで、マクリントックの昔の研究も注目されるようになりました。
1983年、マクリントックはノーベル賞を受賞しましたが、コールド・スプリングハーバーで発表してから30年の月日が流れていました。
80代になったマクリントックは、まだコールド・スプリングハーバーで研究をつづけていました。
その後90才で亡くなる直前まで、科学者とさまざまなことについて議論を交わしたと言われています。
まとめに代えて
この記事ではマクリントックの生涯について簡単にご紹介しました。
自分の興味のあることを先入観や周りの評価を気にせずに追い求め、引退していてもおかしくない年まで研究を行うほど好奇心あふれる研究者であり、女性生命科学者のパイオニアといってもいい方だと思います。
DNAはまだまだ不明なことが多く、特にゲノム中のほとんどを占めるタンパクを作らない領域については未だ何をやっているのか全貌が見えていません。
「DNAの98%は謎 生命の鍵を握る「非コードDNA」とは何か」といった本にも分かりやすく書かれています。
「ノーベル賞の100年 自然科学三賞でたどる科学史」は、マクリントックの業績だけでなくノーベル賞についてまとめられた文庫です。
どのような興味深いドラマがあったのかを楽しんで読むことができます。
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