マリオ・カペッキーという研究者は、幼くしてホームレスを経験し、後にノーベル賞に輝きました。この異色の天才が切り開いたのは、遺伝子操作をしたマウスの作製という、今日の生命医学研究にとってなくてはならない手法の開発です。
この記事では、マリオ・カペッキーの波乱万丈の人生とともに、遺伝子改変マウスができるまでの歴史を解説します。
ホームレスからワトソンとの出会いまで
1937年のイタリアにマリオ・カペッキーは生まれました。当時のイタリアはムッソリーニ率いるファシズムの独裁下にありました。父親は空軍の兵士でしたが作戦中に行方不明になったので、マリオは母親とともに山小屋で過ごしていました。
1939年はヨーロッパのほぼ全域が第二次世界大戦の戦場となり、イタリアはヒトラー率いるナチスとともに連合国軍と対立します。1941年、マリオが3才の頃、山小屋にナチスの秘密警察が突然現れ、マリオの母を逮捕して連れ去ってしまいます。母は詩人で、その活動がナチスに目をつけられていたと言われています。
マリオ自身はいったん近くの農家に引き取られたものの、山小屋に残されていた家財道具を売り払ったお金が底をつきると、4才半のマリオは農家からも追い出され、路上生活や孤児院暮らしを転々とすることになったのです。
終戦後の1946年、9才になったマリオの前に見知らぬ女性が現れます。彼女こそ連行されたマリオの母で、苦労のため5年の間に大きく容貌が変わっていたそうです。母の弟からもらったお金を使い、マリオと母は2人でアメリカに渡ることになります。
ついたその日からマリオは人生で初めて学校に通い始めます。英語は全く分からず、また幼くして1人で生活をしていたのでマナーもよく分かりませんでした。すべてアメリカで身につけることになります。
高校卒業後は大学に入り、当初は物理に興味がありましたが、大規模装置を使い大人数で共同研究をするスタンスではなく個人で集中できる分子生物学に興味の対象が移ります。
大学卒業後、ハーバード大学のジェームズ・ワトソンに面会を申し込みます。2重らせんの発見で有名であり、この後、1962年にノーベル生理学医学賞を受賞することになる、あのワトソンです。
ワトソンのもとで大学院の研究を行うことになり、ワトソンの影響を強く受けることになりました。
「小さな疑問からは小さな答えしか得られない」とか、ある「分野で重要な意味があり、その時点のテクノロジーを使ってアプローチ可能なテーマをどのように探すのか」といったことについて教わり、そして自伝には「他の世界はひとかけらの菓子程度にしか見えなくなった」と書いています。
そんなカペッキは、大学院生時代にナンセンス・サプレッションと呼ばれる今日の教科書にも書かれている現象について優れた研究を行いました。
30代前半の1969年には独立して自分の研究室を持つことになります。
遺伝子を核にマイクロインジェクションし、セレクションする方法の開発
1972年、スタンリー・コーエンらが遺伝子をプラスミドに組み込み、それを大腸菌に取り込ませる実験に成功しました。しかし、人間の遺伝子を調べるためには大腸菌ではなく哺乳類動物に遺伝子を組み込む必要があり、それは依然として難しい課題でした。
1977年、マリオ・カペッキーはある論文に目をとめます。哺乳類の培養細胞にウイルスが持つ酵素 (のDNA)を取り込ませるものでした。これは細胞が培地を貪食することで起こる減少と考えられましたが、100万細胞に1つあるかないかというごく稀にしか起こらない現象でした。
カペッキーは、細胞にDNAが取り込まれてもそれが核に行かないから発現しないのだ、もっと直接核にDNAを届けるために注射針を使ったらどうか?と考えました。
ちょうど隣のラボが神経生物学の研究をしていたので、極細の針を使わせてもらい、DNAを核に入れてみました。すると、3細胞に1つという高い頻度で遺伝子を発現させることができたのです。
これをもっと洗練させて、相同組み換えを利用すれば、特定の遺伝子を特定のゲノムの場所に挿入できるのではないか?とカペッキーは考えました。1980年のことです。
カペッキーは相同組み換えの効率を高める方法を模索し、ついに1988年になって、遺伝子操作をした細胞から相同組み換えを起こした細胞を選択するポジティブ・ネガティブセレクションを開発しました。
この技術は今日でも使われています。
培養細胞と個体の間のギャップ
オリバー・スミシーズらも同じ頃、相同組み換えを利用して、遺伝子の突然変異を治せないかと考えていました。彼らはプラスミドを使って人間の細胞に遺伝子を入れる方法を1985年に確立します。
カペッキーもスミシーズも、哺乳類の細胞に遺伝子を発現させることだけでは満足しませんでした。
カペッキーは、なんとかしてその細胞を哺乳類の体に戻し、遺伝子操作した動物を作りたいと考えていましたし、スミシーズは人間の遺伝子治療を望んでいたのです。
いずれにせよまだ多くの課題がありました。
ES細胞の登場
生物個体すべての細胞に遺伝子操作をするという問題を解決する技術がマーティン・エバンスによるES細胞の開発でした。
ES細胞は、体のあらゆる細胞に分化することができ、「万能細胞」とも言われています。
ES細胞を知ったカペッキーもスミシーズも、これを使えば遺伝子操作した動物ができると考えるようになりました。
カペッキーは1985年にエバンスの研究室を訪れ、ES細胞の扱い方について教えを請います。スミシーズはエバンスにES細胞を分けてほしいと依頼し、念願だったES細胞を手に入れました。
カペッキーもスミシーズも、最初の遺伝子ターゲットとして偶然にも同じHPRT遺伝子を選びました。この遺伝子はX染色体上にあり、欠損することでレッシュ・ナイハン症候群という遺伝病を引き起こすことが知られています。
1987年、カペッキはES細胞のHPRT遺伝子の間に特定の遺伝子を挿入し、ノックアウトすることに成功します。スミシーズも同じ年に傷ついたHPRT遺伝子を正常な遺伝子と交換したES細胞を作ることができました。
両者はともに、このES細胞をマウスの胚に入れて遺伝子操作をしたマウス (キメラマウス) を得ることに成功します。
1989年にカペッキー・スミシーズ、エバンスの技術をもとに、世界で初めて遺伝子操作をした哺乳類が報告されました。この3人の学者はこの業績で2007年のノーベル生理学医学賞を受賞することになります。
まとめに代えて
この記事では、世界初の遺伝子操作マウスが生まれるまでの歴史を紹介しました。
実はこの話には後日談があります。ノーベル賞を受賞したことがきっかけで、カペッキは生き別れの妹と再会したのです。
混乱の時代で生まれてすぐに養子に出されたということ、そして父親が違うということもあり、カペッキは妹がいることを知りませんでした。
妹は兄がいることを育ての親から聞かされていたものの、その兄も母も戦争で亡くなったと聞いていたのです。
ノーベル賞受賞がきっかけで、2人は離別から半世紀以上もたって再会することができたのです。
生命科学者の人生にはいろいろあり、ストーリーが面白い方が多いです。「なかのとおるの生命科学者の伝記を読む」などにも分かりやすくまとまっているので興味がある方は読んでみると楽しめるでしょう。
この記事ではかなり割愛してしまった遺伝子操作の歴史については、「ドキュメント 遺伝子工学」という本に詳細がわかりやすく描かれています。
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